【小説/SF】安楽死法案の可決

Sae Morita
Jan 3, 2021

--

Mさんは安楽死をしたらしい。3ヶ月ほど前に退職したきり連絡もなく、彼女は最近どうしているんだろうと考えていた矢先にそれを知ったのだった。

別に突然の退職というわけではなかった、と思う。上司である私とも退職時期については相談を重ね、引き継ぎはとても丁寧だった。あまりにも丁寧だったので、彼女の退職によって不都合を被った人間はひとりもいなかったほどだ。それに、欠員を埋めるために採用された女性は、正直なところMさんよりも優秀だった。

「退職の相談してるときとか、全然そんな、あの、兆しみたいなのなかったんですか、鬱とかそういうの」他部署の人間が私に聞いてきたのだが、私には首を振るほかなかった。

本当は気づけたのかもしれない。少しそういうことを思ってしまう。もっとMさんの退職を引き止めるべきだったのかもしれない。退職後も連絡をしていればよかったのかもしれない。退職の理由を聞くべきだったのかもしれない。

他部署のその人はMさんの死をどこかゴシップのように楽しんでいるきらいがあった。「旦那さんも寝耳に水で、今いろんな人に話を聞いて回ってるらしいですけどねえ」と、必要以上にシリアスな顔でそう言う。それから彼は続けて、「私は安楽死制度なんてやっぱりどうかと思いますよ」と言った。そうですね、と私が相槌を打つと、満足そうに頷く。

「安楽死法案」が可決されたのは2年ほど前のことだ。福祉に対する予算が「かつてないほどに膨らんでいる」ことを理由に、与党はほとんど審議もなしにこの法案を通してしまった。

諸外国と異なり、我が国の「安楽死法案」の内容は異常としかいえないものだった。まず、治療が見込めない病気などを患っている必要がない。さらに、完全に本人の意思のみで安楽死の実行が可能だ。18歳以上であれば、性別や収入、持病の有無などにかかわらず全ての国民が安楽死を実行できる。

要するに、「楽に自殺をしたい」という欲望を叶えるためだけにこの法案は可決されたのだった。

当然、メディアは法案を強く批判した。自殺をしたい人を支援するよりも、自殺をしたい人を生きたいと思わせる支援策を考えるのが筋だ、という真っ当な反論。自殺をしたいと思わせてしまう社会を作り上げた政治に対する反省はないのか、という、これまた真っ当な疑問。当時のネットニュースには「自殺幇助」とか「殺人」といった、物騒かつ的確な言葉が飛び交っていた。

記者会見に乱入したYouTuberが、ある与党の政治家にコメントを迫ったのだが、その政治家の返答は無知そのものだった。「精神を病んでしまった人っていうのは元々そういう気質がある」と彼は豪語したのだ。

「昔はそういう人を精神薄弱って言ったものですよ。キチガイとかね。今は色々厳しくなって言えなくなっちゃいましたけど、でもこういう言葉の何が悪いんだって私は思いますよ。そのものじゃないですか。精神がね、薄弱って。そういう人っていうのは昔はやっぱり間引きとかされていたわけですけど、でも医療の発展なんかによって間違って生まれてきちゃった人なんですよ。そういう人に生きろと強要するのも可哀想でしょうが。病気を治す気もない人のために、税金でカウンセリングをさせますか、むしろそっちのほうが可哀想なんじゃないかと私は思いますけどね。人道的見地から言っても」

その動画はまたたくまにインターネットで拡散され、当然、激しい批判に晒された。政治家はその発言についてのちに、「不快に思う人がいたなら謝罪する」という旨の会見を行ったが、与党は彼を処罰はしなかった。

そうして法案は、なかば強行的に可決された。

デモも、署名も、国連からの勧告も、諸外国からの報道も、何も意味がなかった。もうずいぶん前から、与党が施行すると言い始めた法律は、誰が何を言おうと実際に通ってしまうことが続いていた。

それに、その政治家の言葉にはある程度「真実」が含まれている、と思ってしまった人が、この国には多少なりとも存在したのだと、私は思う。

アパートの鍵を開けると、気の滅入るようなカビっぽいにおいが鼻の周りにもったりと留まる。半年ほど前から敷きっぱなしになっている布団に倒れ込むと、「ああ」と息を漏らした。

天井に張り付いたシーリングライトがやけに眩しい。コートを脱がなければと思うのだが、きょうはその気力がなかなか湧いてこなかった。

ポケットからスマートフォンを取り出すと、久しぶりに「安楽死制度利用者データベース」のサイトを開き、Mさんの本名を入力する。すでに彼女の名前はデータベースに登録されていた。

法案に反対する団体によって運営されているこのサイトは、誰でも更新をすることが可能だった。身近に制度を「利用」した人がいれば、その人の情報を書き込んでいく。いじめやハラスメントに使われることも多く、閉鎖を求める人は多いが、いまだに存続しているのは、それだけこのサイトを使う人が多いということの証左なのだろう。

私も制度が始まった当初はこまめにデータベースをチェックしていたのだが、そのうち見たくもなくなった。想像していたよりもはるかに速いペースで「制度利用者」が増えていたからだ。ブラック企業に勤めていた若い女性、認知症を患っている義理の親を介護する男性、身寄りのないホームレス、腰の骨を折って歩けなくなり息子に介護をしてもらうことが決まっていた80歳の女性、新生児とその母親。そしてMさん。

Mさんの名前の下には「遺族が情報公開を拒否しているので、個人情報や制度利用のきっかけなどは登録されていません」という文字が並んでいる。きっとあの夫が公開を拒否しているのだろう、となんとなく思った。

ぼんやりと彼女の名前を見つめる。

一緒に仕事をしていたときのMさんの横顔を思い出す。Mさんは集中しすぎるところがあるから、声を掛けるときはタイミングを見計らう必要があった。そういう個人の「特性」について理解することが、いいチームを作ることなのだと、私は信じて疑わなかった。

でも、結局Mさんは死んでしまった。Mさんはなぜ死んだのだろうか、もしかすると職場環境のせいだったのではないだろうか。つまりそれは私の。

考えていると不意にLINEの通知音が鳴る。恋人からだった。「仕事終わったよー」という文言と、うさぎが飛び跳ねるスタンプ。「お疲れ」とだけ返信をした。

婚活パーティで知り合った恋人とは、付き合いはじめてそろそろ半年になる。「電話できる?」彼女がそう尋ねてくる。夜道が怖いから、という理由で、彼女はこの半年間ほとんど毎晩、私に電話をかけてきていた。

でも、きょうはどうしても雑談をするような気分にはなれない。しばらく考えてから「ごめん無理かも」と返信をした。「え、どした?悪いことでもしてる?笑」「いや、なんかきょう、職場で安楽死制度つかった人が出て」

メッセージを送るとすぐに彼女から電話がかかってきた。「大丈夫?」「うん」「ごめん」彼女はそう言って謝る。「なんで?」「いや、電話したくないだろうなって分かったけど、心配で」「ごめん」「謝らなくていいから」

それから彼女は何も言わなくなった。電話越しに「正しい」言葉を探しているのだろう、となんとなく分かる。「あのさ、俺さ、きょうなんかうまく喋れなくてごめん」私が先手を打って再び謝ると、「いいって」という返答が返ってくる。涙声なのが分かった。

ああこの人は泣きそうなのだ、と気づいた瞬間、私の鼻の奥も痛くなる。受話器から彼女の歩く音と呼吸の音がガサガサと鳴り響く、そのノイズに紛れるよう祈りながら、小さく鼻水を啜った。

「やっぱりさ」彼女は長い沈黙の後、ふと口を開く。「私は安楽死制度って絶対ダメだと思う」確固とした口調だった。「財源がどうとかいうけど、残された人の心のケアとか考えたら、絶対、死にたい人のケアしたほうが安くつくでしょ、違うのかな」

私はどう答えていいものか分からないまま、曖昧に「なんかそんな気するよね」と相槌を打った。「絶対おかしい」「うん」

電話を切ると、窓の外から人の笑う声が聞こえた。きっと近所の大学生だろう。手に持ったスマートフォンはほのかに熱くなっていた。すぐに恋人からのLINEが届く。「電話ごめんね。きょうアレだったら会いにいったりとかするし、電話もいつでもして」

大丈夫だよ、ありがとう、とだけ返信して、スマートフォンを布団に放り投げる。いいかげんスーツを脱がなければ、と思い、私はおもむろに立ち上がった。

スーツをハンガーにかけたあと、不意に思いついて机の引き出しを開ける。中から一枚の紙を取り出してじっと眺めた。役所のハンコが押してあるそれには、「安楽死希望届」と書いてある。

あの日、ニュースキャスターが焦ったような表情で「速報です」と告げるのを、私は電車の中でぼんやりと眺めていた。「安楽死法案が可決されました」「国会議事堂前ではかつてない規模でのデモが行われています」「近代国家にあるまじき前代未聞の法律」「国家による自殺幇助」。

日本終わったな、と、隣に立っている男がつぶやいた。ちらりと盗み見たその人は制服を着ていて、初めてその子が男子高校生なのだと分かった。今の10代はこういう政治的なことに興味があるのだ、となんとなく意外に思う。

会社に着くと、やはり社内は安楽死制度の話で持ちきりだった。「ちょっとヤバいですよね」と笑いかけてくる上司や部下に対して曖昧に「ですねえ」と笑う。

しかし実際のところ、私にはそれが本当に「ヤバい」のかどうかが分からなかった。

というのも、私はその日以来、夢想せずにはいられなくなったからだ。安らかな死、苦痛のない死、任意のタイミングで終わらせられるこの人生。

私は人生に漠然と疲れていた。

たとえば、老後のために、2000万円を貯めなければならないこと。無理にでも結婚をしなければ親が悲しむということ。結婚をすれば子供について考えなければいけないこと。月に年金がいくらもらえるのかを確認しなければいけないこと。投資を始めたほうがいいらしい、ということ。副業を始めたり、手に職を身につけたほうがいいこと。老後も働けるように、退職後も続けたいぐらい好きで、お金を稼げるようなことがないかを考えること。充実した人生のために、生きがいを見つけなければならないこと。

死ねないから生きているというただそれだけのことに対して、途方もないコストを払わなければいけないのに、ときどき私は嫌気がさしていた。そういう折に、あの法案は可決された。

安楽死は希望なんじゃないのか、と、あの日私は思ってしまった。老後のこと、年金のこと、病気のこと、体力の衰えのこと、退職したあとのこと。そういう全てのことを考える必要がなくなったのだと、なぜ誰も言わないのだろう、と、不思議でたまらなかった。口にしたら人でなしのようになってしまうのは、自分でも分かっていた。

Mさんが死んでしまったことは、自分でも驚くほどショックだった。何かできたのではないかと思うし、これからもずっと考え続けるのだろう。安楽死制度がなければ、Mさんは生き続けていられたかもしれない。旦那さんの苦悩もなかったのだろう。制度が存在しなければ、もしかしたら二人は年老いても一緒にいられたのかもしれない。

Mさんだけではない。きっとこれから先、制度を使う知人は増えていくのに違いない。私の目の前を通り過ぎていくであろう無数の死に対して、私はずっと苦しみ続ける。

それでも、私には口籠ることしかできない。安楽死制度に賛成か、反対か、私には決めることができない。

私はやはりどこかで、この法案が可決されて良かったと思ってしまっている。

Photo by Elvis Bekmanis on Unsplash

2018年2月に書いた小説をもとに新しく書いた小説です。

--

--

Sae Morita
Sae Morita

Written by Sae Morita

japanese / Writer / Graphic designer / student in beauty industry / based in montreal, canada🇨🇦 / Mom of a boy / lesbian

No responses yet