【短編小説】私の赤ちゃん息の根止めたい

Sae Morita
Dec 28, 2020

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Photo by Jp Valery on Unsplash

魁人は可愛い。顔のつくりがすごくいい。と思う。まだ生まれて20日だから分かんないんだけど。でも、客観的に見てもやっぱり、可愛い顔をしている、ような気がする。友達の子どもも色々見てきたけど、もっとブサイクだった。

私はラッキーだ。みんながそう言うし、私だってそう思っている。

夢と現実があいまいになった瞬間、意識の外のほうで魁人が泣きだした。暗闇の中でうっすらと目を開けると、確かに彼は小さな泣き声を上げている。

もしかしたら泣き止むかもしれない。私は目を瞑り直して、彼が静かになるように祈る。出産のときお世話になった病院の看護師さんが、赤ちゃんは寝言で泣くこともあるのだと教えてくれた。すぐに抱き上げるとかえって眠りを妨げられて、本当に泣き出してしまうと。

祈りは通じない。魁人の泣き声は大きくなるばかりだった。この、徐々に耳障りになっていく泣き声が本当に嫌いだ。何か正しいことをしろ、とか、お前の行動は全て間違っている、とか、そういうことを言われているみたいだから。

腰の痛みが眠気をきしませるのに感謝しながら、胸のあたりに手を伸ばす。タンクトップが乳房にへばりついているのをゆっくりと剥がした。ぎゅうと絞られるような感覚のあと、つうとおっぱいが垂れる。濡れた肌が空気に触れて冷たい。

部屋の灯りをつける。タンクトップの乳首の部分に不格好な染みができているのが目に入った。GUで買ったベージュのリブタンク。どんなボトムスにも合わせやすくてお気に入りだったのに、二度と外には着ていけない。

波立った心を抑えるためにゆっくりと息を吐くと、タンクトップをまくりあげ、泣き喚いている魁人を持ち上げる。

おっぱいを与える、というただそれだけの行為がこんなに難しいなんて、産んでみるまで知らなかった。赤ちゃんは目が悪いから、私の乳房を見つけられない。仮に見つけられても、私が彼の首を手首で上手に固定できないせいで、すぐに乳房から口が外れてしまう。

早く飲ませてあげなければ、と焦れば焦るほど、正しい首の角度がわからなくなっていき、空腹のせいかいよいよ彼は激しく泣く。激しく泣いているときの彼は乳房を吸えない。そうなるとおっぱいをあげることは絶望的に難しくなる。

そうこうしている間にもおっぱいは馬鹿みたいにたらたら流れてヘソのあたりまで下ってくる。正中線で黒ずんだお腹は、死にかけたおばあちゃんみたいにたるんでシワシワだ。

腹筋なくなっちゃったね、と、3日前、あの人は私に向かってそう言った。「健康的にエロい感じが良かったのに。残念」

正しいことをしなさい。魁人の泣き声を聞いていると、いつでもそういう言葉が私の頭の中をぐるぐる回る。正しいこと。だからそれはつまり、例えば、体型の変化を、妊娠や出産のせいにしないこと。怠けないこと。常にシャキシャキ動くこと。優れた乳腺によっておっぱいをほとばしらせ、魁人を常にお腹いっぱいにさせること。機嫌の悪さをホルモンや睡眠不足のせいにしないこと。常に笑顔でいること。

だから、つまりそれは、女でい続けること、同時に母親でもあり続けること、それを両立させるということだ。別にできなくたって私のことを罰する人はいないけど、できたほうが誰からも評価してもらえるだろうということは誰に聞かなくたって分かる。

魁人の頭の角度を乱雑に変える。いつもより少し力が入っていたかもしれないけど、どっちにしたってこの角度で飲むことが彼には必要なのだ。頭部に与えられた衝撃が不愉快だったのかより一層泣き声を強くする魁人に向かって「だからおっぱいなんだって」と呟くのだが、当然、彼には私の言葉が理解できない。

出産前に読んだブログでは、おっぱいというのはもっと違う扱いを受けていた。何歳になっても飲みたがるもの。飲ませないほうが難しいもの。私もきっと、魁人がそういうふうにおっぱいを愛するんだろうなと考えていた。

私のおっぱいは美味しくないんだろうか。だから飲みたいという気持ちにならないんだろうか。こんな調子で、1ヶ月検診までに体重が増えていなかったらどうしよう。餓死させてしまったらどうしよう。

殺してしまったら。

ゆっくりと息を吐いてから、魁人の口に人差し指を入れる。彼が吸い付いたその瞬間に、急いで彼の頭を乳房まで運ぶ。今度は運よく正しい角度を作ることができたのか、ようやく彼はおっぱいを飲み始めた。

左手がじんわりと痛む。周囲の人からあれほど、産後は腱鞘炎になるよ、と言われていたから、気をつけようと思っていたのに。

本当はときどき、魁人のことを殺したいと思うことがある。

誰にも言わない。別に虐待をしたいわけでも育児放棄をしたいわけでもない。でも、深夜1時くらいにいつも、魁人が死んでくれたらいいのに、と思う。ときどきは、殺してやりたい、と思う。

70時間ぐらいぶっ続けで寝たら、こういう気持ちはなくなるんだろうか。でも、70時間寝たら、70時間分、魁人と離れ離れになってしまう。私ではない誰かによって魁人が殺されてしまうかもしれない。そうなったら私はやっぱり怒りのあまりに狂ってしまうんだろう。大人相手に怒るのはきっと幾分か気持ちが楽だろうけれど。

魁人の皮膚はどこもかしこも柔らかくてもっちりしている。パンの生地みたいに丸くてそれからとても繊細だ。彼はいつだって無抵抗で、私がそこに存在することも、私が彼の要求を正しく満たすことも、いつでも当たり前だと思っている。

なのに、私はそういうことを当然だと思えない。

「夜は寝る時間」、彼が深夜に私を起こすたび私は彼がいなくなって欲しいと思う。「ほんとにもう黙ってよバカなの?」私はそういう言葉を無抵抗な彼にぶつける。大人を相手にするよりも容赦ない方法で怒り散らす。

彼だって私の腹を蹴る。私の髪を引っ張る。私がいかに間違っているのかを伝えるために、私の身体も精神も徹底的に痛めつける。

でも彼の行いは正しい。彼にはそれ以外伝える方法がないのだから。伝えなければ彼は死んでしまうのだから。

でも、私だって、彼とコミュニケーションは取れない。彼が私の意思を分かってくれることはない。

私が彼を殺さないのは、殺すと厄介なことになると知っていたからで、魁人のことを愛しているからではなかった。

死ぬときに走馬灯を見るとして、私の脳裏をよぎるのは魁人と一緒にいるときの私だろうか、それとも魁人がいない頃の私だろうか。

ちょうど1年ぐらい前、あの人と車で木更津までドライブして、アウトレットでUGGのブーツを買った日のことを思い出す。昼前まで寝ていたあの人の寝癖を見ていたらなんだか人生が無性に虚しくなってきて、大きな声で「遠く行きたい、ららぽとか」と言った。「ららぽってこのへんある?」「豊洲にあるじゃん別にどこでもいいけど」

夕方になって到着したららぽーとで、UGGのブーツを買って、クレープを食べた。それから家に帰るのが面倒になって私たちはラブホテルにチェックインする、妙に豪華なラブホテル。あの人は変な大人のおもちゃを買って、私はそれが嬉しくて面白くて、その夜中ずっと笑っていた。

いつか、きょうの日のことを、私は懐かしく思うんだろうか。生まれたばかりの我が子を殺したいと思った日のことを。そうなんだろうか。それまで私と魁人は生きていられるんだろうか。私たちはどうなるんだろうか。私は。

私はいったいどうなるんだろうか。

Photo by Anna Stampfli on Unsplash

2017年に書いた文章を加筆・修正したもの。

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Sae Morita
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Written by Sae Morita

japanese / Writer / Graphic designer / student in beauty industry / based in montreal, canada🇨🇦 / Mom of a boy / lesbian

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