カナダに適応するということ | 2020/11/29

Sae Morita
7 min readNov 30, 2020

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ここ2ヶ月ほどは文章が全く書けなくなっていた。11月は1回しか記事を書いていない上、書いた文章もなんだか断末魔みたいである。こんなに書けなくなったのは久しぶりだ。自分が自分でなくなったみたいで本当に不安。

何度か文章を書くことにチャレンジしては挫折しているので、もうなんでもいいから書いてしまおうと思い、とりあえず日記を書いている。

この2ヶ月で何があったかというと、カナダに適応できた、となんとなく思えるようになった、ということ。

いや、まだまだ英語もフランス語も喋れない・聞き取れないので、とても「適応」できているなんていうべきではない状態なのだけれども。

ただ、カナダに生きている人々の心情を、より高い解像度で見ることがでいるようになったな、と思っている。

高い解像度、というのはつまり、これまでなんとなく「パリピ」「白人」「めっちゃ優しい人」程度に捉えていた周囲の人々にも、多分いろいろ悩みがあったりするんだろうな、ということに気づいてきた、程度の意味(これまでの捉え方が雑すぎる・・・)。

だから、人と喋っていても、会話の掘り下げ方が分かってきたような感じがしている。今も別に会話が盛り上がっているかといわれると微妙なんだけど。でも恋バナをして「恋人のどこが好きなの」とかってキャッキャできる程度には会話ができている。

なぜ解像度が高くなったかというと、端的にいえば通っている専門学校で失恋したことがきっかけだ。

別に失恋自体は一般的な失恋だったのだが、なんだか自分でも意外なほどにものすごく落ち込んでしまい、日常生活がままならなくなり、SNSで無茶苦茶な落ち込み方をしてしまった。

そのSNSアカウントはクラスメイトとフォローしあっていたし、英語を使って落ち込んだので、クラスメイトにも「私がめちゃくちゃ落ち込んでいるらしい」というのが伝わった。

(ちなみに、クラスメイトから慰めてもらったのだけれども、慰め方が私にとってはアグレッシブすぎて、逆に落ち込んでしまったりした)

まあそうやって、人前で落ち込む、人前で本当に恥ずかしいタイプの弱さを見せる、ということをし続けた結果、なんだか先週あたりから、クラスメイトとこれまでよりも本音で話せるようになった感じがしている。

思えばこんなに酷い性格の自分を見せたことは人生でもあまりない。心配してくれている人に怒鳴り散らしたり舌打ちをしたり、ものすごく長文で病んだり。10代の女の子みたいな病み方をしてしまった。本当に恥ずかしい・・・。

考えてみれば、あの手の酷い振る舞いというのは、私にとって、「移民のJapanese」としてカナダ人たちに理解可能な振る舞いから逸脱する行為であったな、とも思う。

「期待されている私らしさ」から一度でも大きく逸脱することに成功すると、そのあと、「期待はされていないだろうけど私らしい私」を表現することに比較的成功しやすい、ような気が、私はしている。

言うならば、「森田さえ濃縮還元100%」みたいな、濃すぎる味を許容されたあとなら、30パーセントぐらいの自分らしさを小出しにしていくのは全く抵抗がなくなる、みたいな感じ。

いや、あの逸脱が「私らし」かったかと言われるとそんなことはないのだけども。

似たようなことを新婚当初も思ったことがある。

当時の私はわりと激務で、家に帰ってくるのが夜の21時ぐらい、家を出るのが朝の4時ぐらいだったのだが、「良い妻」であらねばならないと思い、毎日夫のお弁当を作り、家事もきちんとこなしていた。

眠かったし、自分が不出来な生き物だなと常に思っていて辛かった。

ある日、夫と喧嘩をした勢いで、カフェイン薬を致死量摂取し、病院に運ばれた。

スッピンで夜通しえづき、鼻からチューブを入れられ、体の痙攣が止められず、当然のように会社を辞め、治療の費用は1週間ほど入院して20万円程度。こんなに「悪い妻」もなかなかいない。自分が本当に惨めだった。

でも、夫はそういう私を見捨てなかった。

まあ単純に見捨てることが怖くて出来なかっただけだろうとは思うのだけれども。

退院して彼と一緒に手を繋いで帰る道で、なんだか生まれて初めて、「期待されるような人生を歩めなくても愛しているよ」と言われたような気がした。

それ以来、私は彼の前では本当に自然体で生活することができている。

入院していたときの惨めさと、この1ヶ月の落ち込みの感覚はとてもよく似ていた。

どちらの期間でも、私は周囲の人々に、「あなたはこんなに無価値な私を、というより、積極的に人に迷惑をかける私を、それでも愛してくれるのか」と尋ねていたのだと思う。

私はカナダにきて、どんどん自信を喪失していた。

私はクラスメイトに比べてブサイクだし、信じられないぐらい幼く見えるし、言葉が喋れないし、友達がいないし、ボートに乗ってビキニでシャンパンを飲むような経験が人生で一度もないし、家の中が殺風景だし、化粧が下手だし、服がダサいし、カナダ人がワオと思うようなことがまるで出来ない。

だから、私に優しくしてくれる人は、私が哀れだから私に優しくするのだろうと思っていた。

私は哀れだからという理由で優しくされたくはなかった。私という存在のことが好きだから優しくされたかった。でも、どんどん積もり積もっていく劣等感の中で、自分らしく振る舞うことなんて出来ない。

クラスメイトに舌打ちし、怒鳴り散らしたとき、私はもう限界だった。「地味で大人しい真面目な日本人」を演じること、期待されている人間として生きることがしんどかった。頭の中では、もう限界、という言葉と、知り合いがどんどん殺されていく映像がずっと流れていた。

私はでも、同時に願っていた。こんなに洒落にならないレベルで攻撃的に迷惑をかけて、それでも誰かから愛し続けてもらえたら本当にいいのに。

私はこうやって時々ものすごく落ち込むけど、みんなみたいに”positive vibes only”なんて軽々しく言えないけど、そういう感覚を分かる、と言ってくれる人がカナダにもいたらいいのに。

だって私はそういうタイプの人間だから。

結局私は誰にも嫌われなかった。心配だけされた。初めてカナダの友達と意味のない電話をした。友達からは「私もリスカ跡あるよ」と教えてもらった。「自分がブサイクすぎて死にたい」という話をしたりした。

あんなに最悪のレベルでどうしようもない私でも認めてもらえるのなら、別に普段の、「森田さえ」として27年間生きてきた私だって認めてもらえるんじゃないの、と思い始めているのが、つい先週あたりからだ。

私は皮肉屋だ。私は感動しやすい。私は落ち込みやすい。私は読書が好きだ。私は絵を描く。私は歌を歌う。私は母親だ。私は韓国ドラマが好きだ。私は日本語の曲が好きだ。私は可愛い私が好きだ。私は文章を書く。私は英語もフランス語も洒落にならないレベルで分からない。私はとても真面目だ。私は惚れっぽい。私はアジア人だ。

別にカナダ人に理解できない私だって、カナダに存在してもいいじゃん、と思うようになっている。理解できないとしたら、あなたがたカナダ人が受け入れられるように頑張れよ、と思う。だって私はカナダ人の理解できなさを受け入れているから。

カナダに慣れてきた、と最近本当に思い始めている。ここまでくるのにすごく長い時間がかかった。こんな紆余曲折なんてなくてもスッと適応できる人は多いんだろうなあと思う。でも私はこういうプロセスが必要だったのだ。

来年の今頃はまた別の意味合いで「カナダに慣れてきた」と言っているのに違いない、と思う。そのときの自分はどんなふうにこの記事を読むのだろうか。アホなこと言ってんな〜とか思うんだろうか。

ともあれ、20代後半のこの時期に、こんなに感情を揺さぶられるような経験をたくさんできることが、本当に嬉しいし面白いことだ、と思っている。

カナダに来て良かった。この1年半ずっと言っていることだけど。

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Sae Morita
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Written by Sae Morita

japanese / Writer / Graphic designer / student in beauty industry / based in montreal, canada🇨🇦 / Mom of a boy / lesbian

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