なぜ書くの? それ以外取り柄がないから?

今年はたくさんの文章を書いた。100記事ぐらい書いていたらしい。なぜこんなに「書く」という行為に執着しているのか、書けば書くほどよく分からなくなった。
10月からほとんど文章を書かなくなった。書かなくなって気づいたのは、書かなくても生活は回っていったということだ。
専門学校に通う毎日はとても忙しいし、何より、自分の「専門性」がどんどん磨かれていくのを感じる。勉強するべき事柄は無限にあるし、それらの勉強はとても面白い。面白いと感じるということは、多分私はこの分野に向いているのだと思う(何も面白いと思わない、と漏らすクラスメイトもいるから)。
どうやら私は、学校を卒業して就職したら、「何者」かになれそうだ。つまり、名刺に職業名を書けるような何者かに。
さて、自分のことをわざわざ「文章を書く人間」と定義づけなくても、私は何者かになれる。じゃあ私は、なぜ書かねばならないのだろうか。専門学校が面白くなってくればくるほど、その疑問は私の中で強くなっていく。
書くことが好きだから? 文章にしたい思いがあるから? 誰かを救いたいから?
少し前まで、それらはまさに、私が文章を書く理由だった。私は書くことが好きで、私は書かないと気持ちが爆発して死んでしまうタイプの人間で、私はそうやって書いた文章によって私に似た誰かを救えると思っていた。
書かなくなってしまって、それでも生活が楽しく回っていくときに、そんな大層な理由は私の中に存在しないんじゃないか、とふと思った。
私は単に、Twitterのbio欄に「作家」と書きたいだけなんじゃないだろうか。友人から「何の仕事してるの?」と聞かれたときに「ざっくり広報かな?」と答えるのに嫌気がさしていただけなんじゃないだろうか。
Twitterのbio欄に職業名を書きたい。そういう願望を満たすために文章を書いていたんだとしたら、専門学校が面白くなってきた瞬間に「書きたい」という欲望が消え去ってしまったのはよく分かる。
もっと自分という生き物を大義名分でコーティングできればいいのだが、どう考えてもできない。コーティングできていた頃、「書くことは生きること」と言えていた頃はよかったなあと思う。
考えてみれば、文章を書くことは子供の頃から好きだった。なぜかというと、親に金を払わせなくても習熟が可能だったからだ。
親は私のことをいつも「金のかからない子だ」と褒めた。公立の学校に進学したから。塾に行かなかったから。習い事をしなかったから。
年齢があがればあがるほど、親に金のかかる要求をしづらくなった。よく分からない要求をして、私の「いいところ」が減ってしまうのが怖かった。
学問に王道はないそうだが、何者かになるためには王道がある。課金だ。学校に通う、いい先生を見つける、自分にあった参考書や学習法を見つけるまでひたすら試す、個人レッスンに通う。
独学で到達できる場所なんてたかが知れている。例えば、知りもしないロシア語を勉強するためには、ひたすらロシア映画をみるより、文法書を1冊通して読んだほうが素早くロシア語を習得できる可能性が高いように。
高校の頃の同級生が躊躇いなく「ラノベの絵を描く人になりたいからイラストの専門学校になりたい」みたいなことを言っていたとき、そして親に馬鹿みたいな学費を払わせていたとき、私は彼をバカにした。彼は「金のかかる悪い子」だったからだ。
でも、金がかからなくていい子だ、と褒められることで喜んでいた私は、アラサーになっても、自分のことが「何者」であるか分からなかった。
私はだから文章を書いた。私は人よりも文章を書くのが上手なのだ、と誰かに伝えたかった。文章を書く学校に行ったわけでもないのに上手なのだ。才能があるのだ。私は金がかからないのに才能があるからいい子なのだ。
私には才能があったのか? あるのか? それは分からない。
確実に言えることは、今通っている専門学校の分野については、私は適性がある、ということだ。プロにも褒められるし、クライアントからも褒められる。周囲と比べてみて客観的に、私には適性がある。
さらに私は、この分野についての専門知識も持っている。卒業すれば学位も手に入る。
そういう「確かさ」は、30年近く独学で書くことによって身に付けた「書く」技法よりもずっと、私を安心させる。私はプロフェッショナルである、と、私を安堵させる。
なぜ書くのだろうか。なぜ書いていたのだろうか。プロになりたくて、でもそのために金を払うような自己肯定感も経済力も余裕もなかったからだろうか。
世の中には、書くことのプロになるために、アホみたいな金を払って、正攻法の知識と研鑽を積み重ねている人がたくさんいる。そういう人の努力よりも、チョロチョロッと隙間時間に文章を書いている自分のほうが優れていると言い切れるその根拠のない自信はどこから出てきたのだろう。
でも、なんだかよく分からないけれど、この文章を書いている間中、私は妙に楽しかった。思考が文章になっていくことを楽しい行為だと私の脳は認識していて、それが1000文字、2000文字、3000文字と長くなっていけばいくほど、その喜びは強まっていく。パブロフの犬みたいなものだ。そこに大義名分などはない。
趣味で書いていけたらいい、と思う。誰に読まれなくてもハッピーでいられたらいいのに。これは私の脳を満足させるためにしている行為なのだと自分に理解させたい。
たとえば休日にカラオケする人みたいに。誰に褒められなくてもカラオケは楽しいはずだ。誰かに自分の歌を称賛されたいなんて思いながら歌う人もなかなかいない。
でも私はやっぱり、誰かに伝わったらいいのに、と思いながらこの文章を書いている。誰かに伝わりそうな文章を書く瞬間、やっぱり私の脳は喜んでいる。それで私は性懲りもなくPublishのボタンを押し、誰かが私の文章を読んでくれないかと祈るように更新ボタンを押し続けるのである。
たぶん私は書き続ける。来年も。頻度は落ちても。質が下がっても。私はそういう人間なのだ。